信仰は“信じる”ことで人間性が向上する


 講演会で政木先生は、「宗教に熱心な者は信念を持つことの
できない最低の人間である」と常々いっておられましたので、
宗教に対して否定的であったかのような印象が強いのです
が、決してそうではなくて、お金儲けに走る宗教家や、自分で
問題を解決せずに盲目的に他人に依存する生き方を戒めて
おられたものと思われます。先生は著書の中で次のように書
いておられます。

 「少しも疑いのない精神状態の時、脳波はシータ波になって
生命体エネルギーが肉体を支配することになる。つまり、脳波
が下がり、無欲となって、肉体の中にいる生命体=神仏のエ
ネルギーが肉体を支配することになり、驚異的な事実、奇跡を
つくり出す」また、具体的な例として、6,000mの山に十字架を
背負って登る高山信仰の祭りを取り上げ、「昔からの言い伝え
によって、難病でも祭りの日に参拝すれば病気が治ると信じら
れている。雪深い高い山に登るには、強い信念と肉体が要求
される。肉体と精神の試練と修業であって、それを克服する信
念を無欲の状態で実行できることが“信仰”である。」とのこと
です。

 通常は、まず自分の願い事が先にあって、その願い事に対
して、叶うか叶わないかに半信半疑となり、当然の結果として
願い事は叶わず、その責任を他に押しつけることが多いようで
す。こういったことを繰り返していると、人生に対して悲観的と
なり、信じるものがなくなってしまうことになります。反対に、自
分の願い事(欲望)は捨て去って、先達の教えや自らのひらめ
き(内なる神の声)を信じて実行し続けていると、一時的につら
いことがあっても、将来的には、人生に対して
楽観的になり、喜びと幸せと感謝に満ちた日々
になるようです。「信じる」ことは“受け容れる”
ことにつながって、やがては“我”(願い事)が
とれて、おだやかで、まろやかな人間性となり、
すべてが良循環するものと思われます。


<著書より部分的抜粋>

 六千メートルの山に十字架を背負って登る高山信仰の祭り
がある。村人達へのインタビューで、「私はあの山に登ったお
かげで病気が治った。だから祭りの日には、必ず十字架を背
負って登ります」と答えた村人がいた。昔からの言い伝えによ
って、難病でも祭りの日に参拝すれば病気が治ると信じられて
いる。雪深い高い山に登るには、強い信念と肉体が要求され
る。肉体と精神の試練と修業であって、それを克服する信念を
無欲の状態で実行できることが「信仰」である。

 同じように、キリスト、釈迦、モーゼ、モハメットを含めたあら
ゆる宗教は、その先達が信じたことを信じ、そうだと信じる心こ
そが信仰心の根本となっている。少しも疑いのない精神状態
の時、脳波はシータ波になって、生命体エネルギーが肉体を
支配することになる。つまり、脳波が下がり、無欲となって、肉
体の中にいる生命体−神仏のエネルギーが肉体を支配するこ
とになり、驚異的な事実、奇跡をつくり出すのである。

 催眠術は人間の潜在意識に指令を与え、肉体をコントロー
ルするものである。宗教も同じで、肉体をコントロールする生
命体エネルギーの大きな人が、小さな人に指令を与えること
で、信者が無心になると脳波が下がり、肉体の意識は弱くな
り、生命体がその指令を受けてエネルギーとなり、肉体をコン
トロールすることである。それで病気も信じるだけで改善してし
まうのだ。

 私は、人には宗教、信仰は必要だと思っている。それは人間
性の向上のためであって、それに溺れてはいけない。溺れて
しまう人は、信仰する資格のない人である。


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