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◇1300年頃武蔵の国(埼玉+東京+神奈川の一部)に生ま
れる。通称は六郎左衛門。幼少より体格がよく力持ちで、16 才の頃より相撲を好み、やがて関東8カ国中で彼にかなう者 は一人もいなくなってしまったといわれている。
◇その後信濃の国(長野県)に移る。山野で狩りをし、湖沼河
川で漁を営み、馬に乗ったまま急峻な斜面や岩盤を駈け降 りていくその様は、あたかも神通力を有しているかのようであ ったらしい。水泳も河神のごとく巧みで、弓を引かせれば古代 中国の弓の名人養由に匹敵し、謀略にもたけた人心収攬の 達人。気は健やかにして不撓不屈の心。戦場に臨めば敵を 退け堅陣をも破ったという。
◇1335年(建武2年)新田義貞の挙兵に呼応して吉野方に味
方し、脇屋義助に従って奮戦し、船坂山を抜き、義貞の越前 杣山城に移るや、細呂木に城を築き、ついに加賀、越前を攻 略する。
◇延元3年義貞の死後、義助の命によりて越前の湊千手寺城
を守り、金津、金崎などの諸城を陥れ、進んで足羽を攻めて 斯波高経を奔らす。また斯波高経の大軍が北陸の諸城を陥 落させた際も、一人とどまって鷹巣城(福井県坂井郡)を守り 南朝のために気を吐く。
◇鷹巣城では、わずか27人の手勢と名犬の犬獅子とともに、
1年2ヶ月間立てこもる。その後、鷲ヶ岳(勝山市)に移る。
◇1341年(興国2年 暦応4年)10月22日、斯波高経らが兵
7千をもって攻めた時、流れ矢に当たって陣中にて没する。 (* 南軍の後醍醐天皇と北軍の足利尊氏が争った南北朝時 代を表した 「太平記」 より。)
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