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◇1619年(元和5年)京都稲荷で6人兄弟の長男として生ま
れる。少年時代は武術の修行に熱中する。8才で熊沢家の 養子となり、15才の時京極氏の紹介で岡山藩主池田光政に 仕える。
◇19才の時、島原の乱が起こり参陣することを願い出るも受
け入れられず、光政のもとを去って京都に戻る。学問の師を 求めていた時、近江国小川村の中江藤樹の噂を聞き門人と なる。規範中心の厳粛主義で貫かれている朱子学ではなく、 陽明学の自分の生命を生き生きと働かせるという“心即理 (心法)”を学ぶ。
◇家庭の事情で藤樹のもとを去り、貧しい生活に耐えながらも
心法を練る。極貧生活を見かねた京極氏の口添えで再度光 政に仕える。心学に傾倒していた光政に重用され、江戸参府 にも随行し江戸で聖学(心学・藤樹学・陽明学)の講義を行 い、老中で評判となる。
◇岡山では藩の改革に取り組み、特に零細農民の救済に力
を入れた。治山治水による農業政策を実践し、藩財政の立 て直しにも寄与したが、現状維持派の家老たちの反感をか う。また、由比正雪反乱事件(牢人の救済問題)で、紀州藩 主徳川頼宣・池田光政・熊沢蕃山に対して思想的黒幕の疑 いがかけられ窮地に追い込まれる。
◇主君光政のために自ら身を引き蕃山村に籠もったが、幕府
の圧力(蕃山の唱える心学を放置すると幕府にとって危険) は強く、その後、京都、大和吉野山、明石、大和郡山、下総 古河と移り住む。この間著述に専念し「集義和書」「集義外 書」「大学或問」「易緊辞伝」を書き残し、元禄4年72年間の 生涯を閉じる。
◇蕃山の思想は明治維新の先駆者、藤田幽谷、藤田東湖の
親子、吉田松陰などに受け継がれ、明治43年には明治天皇 より、文教の興隆に尽くした功により正四位が贈呈されてい る。
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