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◇1916年(大正5年)5月26日兵庫県神崎郡瀬加村瓜生田
で、政木家の長男として生まれる。小学生の頃から胃腸が弱 く、自分の病弱体質を治すために、寺の住職に教えてもらっ た腹式深呼吸を、毎晩1時間実行して、1分間1呼吸までに なる。(後に、この腹式深呼吸が人生を大きく変えることとな る)
◇5〜6歳の頃から、機械を分解するのが大好きで、親戚から
「あの子が来ると何でも壊してしまうから」と警戒されるほどに 「なぜだろう?不思議だな?」を連発する少年だった。妹の子 守の時には、子供には大きすぎて使いにくいうば車を、後方 にハンドルをつけて、前輪を後方のハンドルで自由に動かせ るように改造する。(これが発明品の第一号)
◇小学3年生の時、母親がお寺からもらってきた日蓮宗のお
経の漢文の本を全部解説して母親に聞かせる。母が90歳で 亡くなる前、「あのとき、お前がお経の意味を話してくれたか らよく分かった。ありがたかったよ」と言われた。脳波はシータ 波で千里眼となる。
◇子供の頃から創造力や推察力には自信があったが、暗記
のほうは苦手だったので、普通課程の学校へは行かず、自 分の得意とする電気関係に専念するため、工業学校と高等 工業学校へ通う。
◇電気との出会いはまさに天啓で、小学生の頃に電灯がき
て、4年生の時には電気を利用して扇風機を作るという、まさ に電気少年だった。それで高等小学校を終えた後、叔父を頼 って神戸に出てOKラジオ研究所に入る。そこで、映画のトー キーや、短波受信器、電気蓄音機など、電気機械の作り方を 学ぶ。
◇関西高工電気工学科を卒業するとき、その学校に大阪帝国
大学の川原教授が教えに来ていて、「君は変わったことをし たり、変わった考えを持っていておもしろいから、大学に来 い」と言われ、大阪帝国大学の航空学科の研究生となる。
◇阪大工学部の研究生として入学し、電気通信工学科、航空
学科、造船学科、建築学科、土木学科、応用化学科、精密工 学科、など工学部の全学科を学ぶ。 航空学科では熱線風 速計、建築学科ではコンクリート内部の鉄筋鉄骨探知器、土 木学科では超音波測定器、そして、電気通信工学科では魚 群探知器などを発明する。
◇18歳の時に友人がタバコを吸い始め、自分でも1本だけ吸
ってみる。その直後に自分の生命体のエネルギーが発生し て、「この1本だけで止めよう。工学博士の学位を取り、千万 長者になるまでは、禁酒、禁煙を断行する」という発想を生 む。数年後には、自分で発明した拡声器が製品化され、やが て千万長者となる。
◇昭和10年前後に、大阪の劇場で歌手の舞台を見に行った
時、ギターの弦は鉄線だから磁石とコイルを使用すれば電気 が発生することに気づいた。そこで、マイクを使わずに磁石と コイルで弦の振動を音にしてスピーカーにつなげたら、バー ンというものすごい音が出て、学校中の話題を集める。(電 気ギター誕生の秘話)
◇昭和18年に結婚。妻がご飯を炊く時、ガス台の前で炊き上
がるのを待っているのを見て、何とか工夫してみようと思い、 電気抵抗の急増した時にガスが止まるような装置を作る。こ れが自動炊飯器の始まりとなり、10年後に電気釜として製 品化される。特許を無償公開したため、あっという間に全国 の家庭に広がる。
◇昭和19年から医学部の研究に参加。人間工学としてのエレ
クトロニクスを研究し、人間の神経系と電気回路が同じような 構造であることを知り、後に神経波治療器のビメークを発明 する。また、神経細胞の中にあるコンデンサーは人間には作 ることの出来ない理想的なものであり、“真理は自然の中に ある”ことを学ぶ。以後、発想、発明はシンプルに、自然の原 理をそのままの形で使うようになる。
◇昭和18年に、現在の誘導ミサイルと同じ原理の誘導弾を発
明。日本の敗戦を予知し、上京して強引に東條英機首相に 面会を求め、誘導弾を作ることなどを進言する。新兵器は採 用になったが、試作途中で終戦となり使われなかったので、 戦犯にならずにすんだ。
◇昭和18年12月末に、1分間でテレビの構造がひらめき、部
品をかき集めて2日間で組み立てた。戦後の28年当時、30 万円もしていたテレビを、わずか1万3000円で試作したこと が、朝日新聞で取り上げられ、その後テレビ値下げの原動力 となった。
◇昭和47年、テレビの画面で見たスプーン曲げの実演に苦々
しく思い、自分で発明した金属ひずみ計測器を持ってテレビ 局へ乗り込む。しかし、想念の力で金属が曲がるという事実 を見て、三十数年学んだことのすべてが根底から覆され、超 常現象に目覚める。
◇昭和48年3月、阪大の構内を散歩している時、棒磁石を芯
にした振り子を作れ、というインスピレーションで“フーチパタ ーン”が誕生。当初は何に使うのか分からず、3ヶ月間、300 余人に実験し、人間には生命体エネルギーという現代の科 学では解明されていない未知なるエネルギー(第一生命体と 第二生命体)の存在を知る。以後、二十数年間で6万人以上 の人間性を測定する。
◇50歳でゴルフを始め、その後、一年半ほどでハンディキャッ
プ15になり、いったん中止し、五年後に再開する。58歳でシ ングルプレーヤーになり、翌々年に関西シニアゴルフ選手権 で優勝。この時、370ヤードのミドルホールでワンオンに成 功し、新聞で大きく取り上げられる。72歳の時、アマチュアと しては、世界で初めてのエイジシューターとなる。自然落下 打法によるゴルフの本を13冊出版。平成9年7月に発行され た「真理のゴルフ」が究極のゴルフ教本。(ビデオ版も同時に 発売)
◇昭和50年1月1日午前1時、信州の熊ノ湯のスキー宿で、
幽体離脱現象が初めて起こる。肉体は信州にありながら、生 命体は空中を南方に飛び、二匹の竜がいる島(蒲郡の竹島) に着陸する。3月にS先生と竹島に行き、夢でなかったことを 知らされ、科学的に説明できないことが実際に起きて、人間 性の転換期を迎える。
◇昭和51年7月、フーチパターンによる人間性が、自我は強
いが超能力型となり真珠が五個出現する。11月には大黒様 が出現し、2週間後には台が削られて完全に仕上がった状 態となる。眼前で数々の奇跡を見せられて、神の存在を信じ ることとなる。
◇昭和53年、丸い人間性となり観世音菩薩像などが出現す
る。フーチパターンは人間性の測定だけでなく、イエス、ノー により時間的なことも測定可能であることを知り、応用範囲 が広がる。その後、妊娠すると生命体がつくこと、死ぬ時に は生命体が抜け出ること、交通事故の有無、相性などが判 るようになる。
◇昭和53年8月、フーチパターンにより、自分自身が昭和54
年1月31日に心臓発作で死亡することを知る。翌年の1月1 日に「汝は永年にわたり、陰徳を積みたるがゆえに汝の寿命 を延ばし、汝に大いなる力を授く」との啓示があり、実際に寿 命が延びた。
◇昭和54年から、岡山の林原生物化学研究所へ勤務。前世
が岡山城主の池田光政であった林原社長の所に、家来であ った熊沢蕃山がお世話になる。岡山では前世の縁のある 人々が次々と集まり、岡山勤務が偶然でなかったことを知ら される。
◇昭和56年、自宅の庭の三つ葉のクローバーが四つ葉のク
ローバーになれば、来られた方はきっと気持ちがよいだろう な、と思ったら5日後には、本当に四つ葉のクローバーに変 わっていた。植物も人間の気持ちを察するということを知る。
◇林原社長のエジソンに関する一言がヒントになって、目に優
しい電気スタンド“バイオライト”を開発。その後脳波をシータ 波にして潜在能力を高める“パラメモリー”、神経と筋肉を活 性化する“マサキLFM”、そして、多くの人を救った“神経波 磁力線発生器”を開発。
◇「科学の進歩・人類の幸せのため」という人類のエゴイズム
が地球を滅ぼそうとしている時、私の生命体にある神から 『世界の人間がなごやかな心になれば、人類はあと千年か 二千年は生きられる。汝は多くの人間を啓蒙し、人間性を高 める手助けをせよ』 との啓示により、その後、講演活動に精 力的に取り組むようになる。
◇平成3年8月、大阪ロイヤルホテルでピアノの前に座ると、
鍵盤が小さく見えて、自分の意識ではなく、生命体エネルギ ーでビアノの演奏が始まった。その後テーブルに観音様も出 現した。
◇平成5年、宇宙から「愚かな人類がガソリンエンジンを作って
しまった。このままでは遠からず、地球は滅亡して人類は滅 び去るであろう」とのメッセージが届く。これは『空気エンジン を完成させるべし』とのメッセージにもなった。
◇平成5年1月26日、屋上でテレビのアンテナを修理している
時に天井板が割れて落下。しかし足が地面に着く前に、身体 が宙に浮かび、天井の上まで舞い上がった。弘法大師も十 八歳の時に、絶壁から落ち舞い上がったと伝えられている が、同じ現象が起きた。まだ生きる必要があるから神が助け て下さったと教えられる。
◇生命体からのメッセージで、平成7年11月24日に死ぬ運命
にあったが、「汝は神経波磁力線発生器の発明によって、死 ぬべき人を何百人も生き返らせ救うことができた。これは陰 徳である。その功徳として汝の寿命を延ばす」との再メッセー ジにより寿命が延びる。
◇平成14年8月6日早朝、86年と3ヶ月のこの世での修業を
終え、光の世界に戻る。
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